昭和45年3月13日 朝の御理解
                                           末永静行



御理解第36節 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それは、あまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。

 全部、神様やら仏様やらを拝む人、どこにでもお参りをする。どこにでも、信心というたら参ると、それが、大変信心深い人だというふうに、まあ、日本人の一つの信仰観というかね、何様でも熱心に拝みなさるというのをまあ、熱心な御信心のようにまあ言うたり、または、思うて参りましたですけれどね。これは、教祖様の御信心は、決してそういう仏様やら神様やらを軽う見るなぁと言うておられるのではない。けれどもね、拝むと言うたら一心というたら、ね、やはり、この方一心というようにですね、その道理を説いておられる訳ですね。棟梁でも大工が家を立てるでも、棟梁が一人おらなければ出来んと。何人も棟梁がおったらできないというふうな、なるほど、確かにそうでありますですね。   
 36節はそういう意味なのです。ですから、なら、もう金光様1本になったと、ね、だから、金光様1本になれというといかにもこう、我田引水のようですけれども、これは、道理ですからね、道理ですから、やっぱり身を持って、なるほど金光様1本で一心でおかげを受けたというおかげを受けなければ、だから、本当は分からない訳です、ね。えー、一番最後の、「草木でも芯と言うたら、一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる」と。それだからというて、なら金光様1本にしたから、もう他の神様、仏様も、まあ、拝まないということになったからというて、なら、果たしてすぐにおかげが受けられるかというと受けられないでしょう。だから、この辺が大変意味の深いことだと思うんですよね。
 そこで今日は、だいたいそういう道理を説いておられるこの36節ですけれども、今日はね、誰でもすぐにおかげを受けられるというところ、草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられると、教祖様が嘘を仰っておられるはずはないですから、ね、だから、ここを、まあ、私が実証させてもらい、みなさんもそこんところを実証して頂きたいと思うんです。なるほどそうだなあと。そういういおかげを頂いて、なるほど生きても死にても金光様だなということになってくるんです、ね。改式もできるでしょう、ね。というて他の神仏を、軽う見たり、どうこうというんじゃないですね。教祖様の教えられるところはどこまでも、そういう、それこそ、藪神古神の前を通っても一礼をして通るような心持ちと仰るぐらいですから、ね。けれどもね、やはり私共はおかげを頂きたいと本当におかげを頂きたいというなら、やはり、そうですね。
 金光様のご信心をさして、天理教もする、キリスト教もやると、そこの大師様に参り、どこのお不動様に参るといったようなそういうのを熱心、「はぁー、あちらは信心がなかなか熱心だ」というふうに思うたり、言うたりしてきた時代から、例えば、教祖の神様は、それが、それは、一心に、本当の信心じゃないというふに言うておられますね。そこで、今日は、私は、その、芯というたら一つじゃと、神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられるというこの一つじゃというその一つがどういうことかと。
 様々な難儀を持っておりますね、金銭、いわゆる経済の問題、病気の問題、とりわけ、昨日なんかは、私、午前中は、もう人間関係の難儀ということをもう次々とお取次ぎさせて頂いてですね、本当にきつかろう、恤なかろうと思いました。ね。もう、とにかく親子でも人間関係がこじりてきますとですね、本当の親の顔でん見ろごとなかごとなってくるとですけんね。昨日は、そんなお届けがありました。
 そういう、例えばその難儀というものが、まあ大なり小なり、まあ、みんな守っておるわけでございますけれども、そういう例えば、難儀に直面した時ですね、私は、今日は、だいたい、この36節を先に頂かずに、この「99節」の「99節」というところを頂くんですよ。そして、次にこの100節の一番初めの「芽でた芽でたの若松様よ」というところを少し頂くんです。ね。ですから、だいたい今日の本命は、この99から100節に移っていくところのおかげということなんです。
 それけんそれは、どういうことであろうか、99というね、なるほど、99というのは、苦に苦がもう重なったというような難儀の場合ですね、赤貧笑うが如し、その上に病気までしておる時というような場合なんですね、金にも不自由しとる、体も悪い、その上、人間関係までこうといったような、ね。だから、私共が願い求める、これは、もう人間の誰しも願い求めるものは、本当に日々が芽でた芽でたと言えれるようなおかげを頂きたい訳なんです。だから、金光大神はそういう、いわゆる、おかげの道をこの百節の最後にもね、「家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」とこう仰っておられますように。
 そこで、私共は、この99節のところをやっぱ一辺通らなければね、100節にはならないという事。芽でた芽でたにならないということ、それは、求めんでも、願わんでもです、これは、誰でもあることなんです。お金があるから苦労が無いちゅうことはないとです。ですから、誰にでもこの99というとこはあるけれども、いつまでもいつまでも99にしてしまっておるわけです。そして、この世は、苦の世だというふうに嘆いておる人達ばっかりじゃないでしょうか。いや、または、もうそれをあきらめておるという人達ばかりじゃないでしょうか。ね。
 その99というところにですね、私は、そして、このことを、ならどういうことを今日皆さんに聞いていただこうかと思うてね、次、開かせて頂いたら、今、36節をみんな読みましたが、36節は、ただいま、私が申しましたように、だいたいの事は申しましたが、一番最後の、ね、芯と言うたら一つじゃとこう仰る。その一つを重ねたら、100になるわけなんです。ね。
 草木でも芯と言うたら一つじゃという、そのひとつを99に足したら100になるわけなんだ、いわゆる芽でた芽でたになるわけなんです。ね。しかも、その一心を出すとですよ、すぐにおかげを受けられると仰るのですから。ね、だからここんところの、例えば36節の一番始めは私(      )申しましたように、金光様1本槍になればすぐにおかげが受けられるというのとは違うことが分かりますね。
 もう、家は一家を上げて金光様1本だと、改式までしたというて、なら、すぐにおかげが受けられるというのじゃない。だからこのすぐにおかげが受けられるというこの一つ、芯というたら一つじゃというその、それが、問題なんだ、ね。なら、その一つというのは、どういうものでなからなければならないかと、その一心とは、どういう一心でなからなければならないかと。いうことになるんです。ね。だから、今日は、そういうような例えば一応、皆さんが心の中にその事を頭の中に入れておいて、そして、次の話を頂いて頂きたいと。
 昨日、午前9時から筑水連合会の先生方が全部集まられます教師会がここの会場でございました。幹部の先生方が9時に見えられる。それから、他の先生方が11時にみんな集まられましてね、まあ、本当に、もう、何と言うでしょうか、もう昨日ばかりは、ピンからキリまでと言うでしょうか、まあ、こちらが、その御用の当番に当たっとりますから、できるだけ、まぁ、お粗末ご無礼が無いように、しかも、皆さんが本当にお話をなさるのに、お話がしようように、まあ、そこんところを願わせて頂いて、おかげを頂きましたが、一番最後に役員の先生方ばかりが、5名でしたか、残られまして、また、あと、話合いをなさって、もう、夕方になりましたから、一献差し上げましてね、まあ、大変喜んで頂いたんですけれども、その時にある先生が、「もう、本当に、今日のような行き届いた御用をして頂いたことは、かつてなかった」という意味のことを言うて帰られました。
 もう、その内容を言うと、もう本当にどんこんされんごとまあ行き届いたことでございましたですね。というて、なら、そうこう、派手にならず、というて、見せぶらかすような訳ではなしに、なんとも言えん、雰囲気の中に、昨日は、一日そういうおかげを頂かせてもろたんです。例えば、ならお食事一つでも、もう最後にお昼食を上げて、最後にその一献差し上げます時なんかでも、もう、ちょうど、お月次祭が、今度は、もう大祭のようなお月次祭でしたらからね、もう、海山川の物それこそ種々のものが一杯でしたし、もう、本当に、大祭の御直会のような感じ、それでもそんなにばさらか念入れんなりにですね、こう派手にもならんようにして、最後までお上げ出来たわけなんですけども。
  もう、本当にとてもとても、ただごとではないなあと私は思いました。これは、もう毎日思うんですけれどもね、だから、先生、これは、もう昨日のお月次祭のお下がりでございます。これは、こんだ昨日お供え頂いたでございます、いっちょいっちょ説明なんかね、あの、したらですね、おそらく先生方は、嘘と思いなさるに違い無いです。何にもだから申しませんでした。
 昨日は、私、今日の教師会に私は、どういう態度でおかげを頂いたら良かろうかと思わせて頂いたら、あの、流行歌手の中に、あの、直立不動で歌う青年がおりましょうが、あのぜんぜん笑わないという人が、あ何とか言いますねあの歌手は。どげんこうこ言うたっちゃ笑わんですもんね。そして、なかなか上手です。何とかという。あの人を頂きますから、「はあ、今日は、直立不動で、黙っておりゃよかな」と思ってから、まあ、昨日は、そのニコニコもせずに、(笑)まあ、言うならば席を汚させて頂いとったんですけれども、ね、もう、本当にあの言うことはないとです、心の中が、一杯のありがたさで一杯なんですから。ね、
  そして、もう本当に、その家が何一つ買わずに、こげん出けましたとこう言うたって誰だって本当にしないほど、そういう真実性がないほどしに素晴らしい。はあ、まあ合楽は、派手だなあ、こんな大きな鯛やら、こんな大きな鰤やらを、例えば、切らなきゃでけないお料理ばかりでございましたら。例えばそれだけでもです。もう、お茶ならお茶でも、本当に、その都度その都度にお茶菓子でもです、それにふさわしいお茶菓子。それかというて、それ以上にゃないとです。それだけしかなかったっです。けれどもです、もう、何ともいえん、その神様の働きの微に入り、際に渡っておられる
ことの中にね、一日過ごさせて頂いたら、もうとにかく「ただごとじゃないなあ」と思います。
 皆さん今日は、そこんところを分かって頂きたいのですよ。ね。久留米の西原教会の若先生が、昨日は、前の日から久留米で青年会の青年教師の信心実習会があって、ここは若先生も一晩泊まりで昨日、一日おりませんでした。そこの講師で昨日は、あちらへ行っておられたですけれども、こちらの役もなさっておられますから、午後からこちらへ帰って見えました。そして、最後のまで残られましたから、今日の櫛原教会であリ、また青年教師会の模様を、一杯頂きながら、話しておられますことの中にですね、こういうことを言うておられます。ね。
 「私は、今日は、青年教師の人達にお話させて頂いてです、とにかくお道の教師にならせて頂いたということは、これは、もう大変なことだなと気付かせて、気付いてもらいたいと。お道の信心を頂いておる。もう、大変なことだなと気付いてもらいたいと。とにかく教祖様が教えておられるということは、とてもとてもこれは、大変なことだぞと気付いてもらいたいと、と思うてお話をいたしました。」ということを言うておられます。私は、それを聞かせて頂きましてですね、それなんです。
 私共信心頂いてです、御教えを頂いて、こりゃあ、とてもとても大変な御教えだなあと。例えば、なら合楽で朝晩こうやって頂いておられる、とにかく、ね、私が、伝えておるお話というものは、これは、大変なことだなと。この御教え、これは、大変なことだなと、私は、皆さんが分かられるところからです、本当の信心が生れると思うんです。ああ、今日の話は良かった悪かった、今日の話は、ありがたかった、今日の話は、文高して分からじゃったといったようなものではなくてですね。これは、大変なことだなという事なんです。ね。
 私は、そういうですね、心が開けてくるところから、信心が本筋になってくると思うんです。日々頂いておるこの御教えというものは、これは大変なものだなと。これは、あでおろそかにできんぞと。ね。そこんところをですね、気付かれたところから、本当の信心が出来るです。ただ、漠然とした信心じゃあ、やはり漠然としてきます。ね。私は、本当にその大変なことだなというですね、これは、金光様に御神縁を頂いたということだけでも、とりわけ、合楽なら合楽にご縁を頂いたというだけでも、朝晩のこのご理解に接しておるということだけでもです、これは、ただごとじゃないなと、大変なこだなと。ね。というようにですね、私は、自覚と、そういう自覚がね、でけたところから、金光様の御信心の本当のところが分かってくるというふうに思います。









 実を言うたら本当に大変なことなんですよ。例えば、昨日の一日のことを私は、思うてですね、それを私も実感しておりましたとこですから、何気なしに言うておられるそれが、私に非常に響いたんです。私が、今日一日のことを、大変なことだなあと、とても本当とは思われないような事実がですね、日々合楽では起きておるということなんです。ね、昨日の教師会のこと、一日おかげを頂きましてです、ただごとじゃないなあと、もう、人に言うだんじゃない、自分の心の中にそれを、じっ、感じる。どういう大変なことなのかと。神様どういうおつもりで御神意を持って、このような、いうなら一分一厘間違いのないというか、ね、真実性を欠くほどしの本当のことをですね、ここでは現して見せて下さってあるのかと。
 それに答えるという心は、「これは、大変なことだな」と気付くことだと思うです。その大変なことだなというその思いがです、ね、本気でその、教えに取り組ませて頂く、いわゆる姿勢というものが、そこから出けて来る。大変なことだなと、今日頂いたこの一言は、これは、大変なことだなと日々それを感じる、ね。そこから、例えば、なら、教えがおろそかにできなくなってくる。
 例えば、私が、今日、99節と頂いて、次の100節の祝い芽出たの若松様よと、芽出た芽出たとこういうところを頂いて、それから、36節の最後の一つじゃというところを頂いて、その一つじゃが99に加わって、100になる。という、その一つとは何か、その一心、ね、草木でも芯というたら一つじゃと、神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげの受けられる、すぐにおかげの受けらえれる一心は、どういう一心なのか。その一つとは、どの一つなのか。ね。
 それが、今日、私は、本当に、大変なことだなと、金光様の御信心とは、大変なことだなと大変なものだなと、その御神意のことを思うたら。ね。それこそ、教祖様の言う一言がです、世界中の例えば人間氏子にね、言うて聞かせれば合点がいくようなね、附におちないということが無いわけです。ね、いうなら。本当に、みんなが、分かるごと(言い聞かせてさえ聞くなら?)金光様の御信心、教祖様の一言というのは、もう、それは、大変なことだ、それこそ大変なことなんだ。ね。
 例えば、天地書付一つを頂いてです、も、そうです。「おかげは和賀心にあり」とこうおっしゃる。ね、この和賀心にありと言われるその和賀心はです、はあ、ほんにそうだと、大変なことだと気付いた時です、そこにおかげを受けられるのです。おかげは和賀心にあり。ね。だから、どんなに腹が立ってもです、どんなにイライラしてもです。どんなに難儀な中にあってもです。和賀心だけは失のうちゃならんという努力なんです。それが、大変なことだと気付かなければそれを大事にしきらんです。ね、本気で取り組みきらんです。金光様は、あげん教えてござるけれども、なかなかそげん和賀心ばっかりはち。やっぱ腹かく時には、腹かかなん。損するごと思うておる。ね。
 教祖様が、国枝という先生のこれは、お話があります。いわゆる教祖様の直信、ね、教祖様のいうなら御信心を頂かれて、お道の信心になられた方のことがここに書いてございます。国枝という方がね、そのお参りをしてきた信者に言うておられることがです、「冷えついでにもう一つ冷えましょうと言うて、神前の、これは、何と、木辺に登という字はなんと読むでしょうかね、だいだいかゆずのようなものでしょうね。木辺に登。を、さげて大根、なますをおしてくれられ、お弁当を頂いた。それがなんとも言えず、涼やかでありがたく感じられ、寒くも無かった。」というておられますですね。
 大根なますと言うんじゃから、やっぱだいだいかゆずのもんがお供えしてあったんでしょうね。それを下げられてそして、それで大根なますをしてやっておられます。ね、ちょうど寒修行時だったそうですが、その寒修行でお弁当を頂こうと、冷えきったお弁当に(笑)その大根、なますですから、いよいよ、だからそこんところを「冷えついでにもう一つ冷えましょう」というて、大根なますを切ってやって、作っておられる。ね。それがなんとも言えず、涼やかで有り難く感じられ、寒さもなかったと。この辺が素晴らしいとこだと思うですよね。今日は、ここんところを頂くんです。これとここは、一連したものですね。
 だから、どういうことかというとね、冷えついでにもう一つ冷えましょうということなんです。ね。寒かけんで、いっちょ熱かもんなっとん頂こうかというのじゃなくてですよ。さあ、コタツの中に入って、というのじゃなくてです。ね、もうそれこそ寒中のことですから、冷えきっておるお弁当を頂かれる時です、ね、寒い時です、それに、もう一つ、ですね、「冷えついでにもう一つ冷えましょう」という心なんです。今日、私が言う一つというのは。
 はあ、この難儀から脱却したい、この難儀から逃れたい、と、逃れたい逃れたい、そこにです、もう死ぬほど逃れたくなってくるわけです。それこそ、親の顔でちゃ見ろごつないごつなってくるわけです。ね、ですから、そういう時にです、ね、そういう苦しいのに、苦しいけれども、もう一つです、それに、冷えついでに冷えましょうという、もう一つ冷えましょうという、それが、必要なんです。
 ね、死ぬほど苦しいということは、99でしょう。それにです、もう一つ、冷えましょうという信心なんです。それがですね、芯と言うたら一つじゃというのは、それなんです。だから、その心を出すとすぐにおかげが受けられるということが分かります。ね。そこにはね、ここにも、あの、涼やかにとこう言うね、大根なますを頂いて、それが、涼やかで寒かったけれども、寒くもなかったと。心が涼しゅうなったと、かえって。清々しいという意味でしょう。ね。冷えついでにもう一つ冷えましょうという気になったらね、そこがあるんです。その境地が。ね。
 これは私が、まあ、いうなら嫌という程体験してきたことです。様々な難儀に、ね、経済、私の場合ほとんどが経済的なことで難儀をしてまいりましたがです、ね、それをもう一つです、ね、こちらが踏み込んでいく気持ちを頂きますとね、そこにおかげがもちろんあったが、ね、その、例話は、いくらもありますから、お話するともっと分かりやすいですけどね、まあ、時間が無いですから、ね、確かにすぐにおかげが受けられるです。同時に形の上に受けられなくてもです、心の上にすぐにおかげが受けられるです。清々しゅうなってくるです。
 苦しい、もう99という程に苦しい。それにね、もう一つ、私はね、草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる、すぐにおかげが受けられる一心とは、一つとは、そういうことだと思う。冷えついでにもう一つ冷えましょう、ということだと思う。だから、そういう、んなら、心がです。ね、今私が申して参りました、「これは、とてもとても大変なことだな」ということが、まず、心に開けなければだめだと。金光様の御信心とは、これは、大変なことだと。この御教えを頂いていっておる、大変な御教えだと。ね、そこに、立って、おかげを頂いてまいりますところにです、99からですね、100節に移る、いわゆる99にもう一つ足さなければ100にならない一つが、あるわけ。
 どうぞ、皆さん、一つ本気でいわゆる最近私が申します、いわゆる和賀心学と、朝晩ここで説かせて頂きよることはね、これは、久留米初代の石橋先生が、「教学と神徳学門は別物じゃ」と仰った、私は、そこんところを、和賀心学とこういう。ね。いよいよ和賀心学を究めていくという。ね。その和賀心学を教えて下さることがです、これは、大変なことだなと一つ、気付かせて頂くお繰り合わせをね、心の上に、それを本当にそう感じさせて頂けれる私は、おかげをね、私が今、大変なことだと思いなさいって言ったって皆さん思われるもんじゃありませんもんね。
 自分がなにかの拍子にふとです、これは、大した教えだぞと。ね。例えば、甘木の初代が初めて小倉の桂先生のお取次ぎを頂かれた時にです。天地の大恩を聞かれて、特に、大地の大恩を聞かれた時にです、これは、大変なことだと気付かれたんです。それこそ足元から鳥が飛び立つ程しの驚きだったと言うておられます。だから、おかげを頂く人は、その「これは、大変なことだ」が、早いですね。ね。もう、初めて参って天地の大恩を聞かれた時にです、これは、大変なことだととにかく、ま、驚いておられます。びっくりしとられます。ね。
 そういうようなものがです、皆さんもこうやって日々お参りされておられる内にです、だから、本気で修行させて頂いてそういう心がほっと開けた時です、そこからです、99に直面してもです、ね、一つ冷えついでに、もういっちょ冷えようという元気な心も生れてくるわけです。そこにね、芽出た芽出たというね、100節のご理解に頂きますようなおかげが約束される。ね。いかに、金光様の御信心を、1本に決めたというたからといてですね。その一心を出したからと言うて、すぐにおかげが受けられるにつながっていないでしょうが。だから、今日は、そのすぐにおかげが受けらえれるという一心とは、一本とは、どういうことかということに、焦点をおいてお話しましたですね。どうぞ。